二川南の昔話


沢渡池と反茂池
(さわたりいけとたんもいけ)

沢渡池
 むかし、むかし、ずっとむかしのある日のこと、西の方から大男が大きなもっこに土をいっぱい入れて、てんびんぼうをかつぎ、のっし、のっしとやって来ました。ずいぶん遠くから来たとみえて、二川あたりまでやって来ると、
「どっこいしょ」
と、こしをおろしてひと休みしました。
 やがて、また大きなてんびんぼうをかついで、歩いて行ってしまいました。
 大男がひと休みしたあとは、おしりのあとが大きくへこんでいました。そこへ雨水がたまって、反茂池と沢渡池になったのだそうです。そして、もっこからこぼれた土が一方は岩屋山に、もう一方は立岩(たていわ)になったのだそうです。


 小 山 塚
むかし、源義朝(みなもとのよしとも)が平治の乱(へいじのらん=1159年)にやぶれ、知多半島の野間(のま)というところまでにげていきました。たくさんの家来(けらい)たちはとちゅうでちりぢりになってしまいました。そうした人々の中に古渡の伊勢(ふるわたりのいせ)という武将(ぶしょう)がいました。きずつき、つかれた身をはげましあいながら、14人の家来とともに二川のあたりまで、のがれて来ました。
 ところが、義朝が野間でころされたことがわかり、みんな悲しみにくれました。主君をなくした今、追っ手をのがれて関東へ行ってもどうなるのだろう。もうこれまでだと、主君のあとをおって、せっぷくしてしまいました。
 このかわいそうな人々をうめて塚(つか)にしたのが小山塚です。今ではあとかたもなく、言い伝えだけが残っています。

  ※源義朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝のお父さんです。


三日三升(みっかさんじょう)

 今からおよそ80年くらい前のことです。弥栄(いやさか)のあたりには、まだ人が住んでいませんでしたが、豊清(ほうせい)には開たくのために多くの人々が入ってきました。でも、新しい土地での生活は苦しく、毎日毎日、あれ地をたがやしていました。
 その中に松次郎というわかものがいました。この人の生活も楽ではなく、一日中、外でいっしょうけんめいはたらいていました。
 東海道の南がわには田んぼがあり、その間にはいくすじもの小川が流れていました。はたらきものの松次郎は仕事のひまをみつけては、この小川に出かけ、ふなやどじょうをとっていました。家で食べきれない魚は魚屋へ売りに行きました。ふなやどじょうは3日目には必ず三升(だいたい5キログラム)以上とれ、食べのこりは田や畑のこやしにしました。
 こうして作物がよくとれるようになった松次郎は、源吾坂に家を建て、りっぱなおひゃくしょうになりました。この魚をとった小川を三日三升というようになりました。 
 今ではこの川もコンクリートで作り直されてしまいました。


座頭崖(ざとうがけ)


二川南小学校の東を流れる落合川(おちあいがわ)にそってがけになっているところがあります。ここはむかし、二川と細谷(ほそや)をむすぶ大切な道でした。木やささがしげっていて、昼でも暗く、きつねやたぬきが住んでいたそうです。雨のふる日などは、それこそ、まったくだれも通りません。
 ある日のことでした。琵琶(びわ)をひきながら、物語をして歩く座頭(ざとう)が、細谷の村に来ました。村の人たちは、ひさしぶりにお話が聞けるので、よろこんでいました。ところが夕方になって座頭が、
「これから二川へ行こうと思う。」
と言い出しました。おどろいた村の人たちが、
「あの道は、昼でも歩きにくいところだから、明日にしたほうがよいのでは。」
と止めました。しかし、座頭は、
「わしは目が見えないのだから、昼も夜も同じことだ。」
とみんなの止めるのも聞かず、一人で出かけてしまいました。
 あくる日、このがけの道を通った村人が、がけの下に落ちている座頭を見つけ、大さわぎになりました。それからは、このがけを座頭がけとよぶようになったのだそうです。


源吾坂(げんござか)


 国道1号線に「源吾坂」というバス停があります。このあたりの坂をむかしから源吾坂といっています。このあたりは、むかしの東海道を広げて、国道にしたところです。もともと二川の村はもっと南の方にあったのですが、東海道がしだいに整えられ、多くの旅人が東海道を通るようになったため、村中で東海道ぞいにうつり住みました。
 このとき、中心になってひっこしのさしずをしたのが、源吾という人でした。また、源吾はあれ地をたがやしたり、道や家を作ったりするのに、みんなのためにはたらきました。そこで、人々は源吾のおかげだとかんしゃして、この坂に源吾坂という名前をつけたのだそうです。


一里山(いちりやま)


 二川南小学校の校区の一番東は一里山というところで、静岡県がすぐとなりになっています。それは、むかし「一里塚」(いちりづか)があったからです。
 一里塚は、徳川家康(とくがわいえやす)がつくらせたものです。東海道を旅する人に道のりを教える目じるしとしたものです。一里は今のやく4キロメートルなので、4キロメートルごとにありました。けれども今ではほとんどのこっていません。
 塚は道の両がわにあって、10メートル四方くらいの大きさでした。石でつくったものと、土でつくったものがあり、その上にはえのきや松を植えて、遠くからでもわかるようにしていました。